11月ベビーマッサージ終わりました。12月のお知らせ」

DSCF4747

11月ベビーマッサージの風景です

DSCF4749

楽しかった。こんなにいっぱい身体や足を

触ったのは初めてです。

はる君が喜んでいました。

DSCF4751

初めてです。 少し眠かったのか泣いている時も

あったけど楽しかった。

ママ二回目は大丈夫だよ。あらた君です。

DSCF4748

笑顔がよく出るようになりました。

ニコニコ顔です、アップしてみてね。

そお君です。

12月のベビーマッサージは次のとおりです

12月16日〔水)  10時~11時30分

持ってくるもの  シート 着替え タオル

オイル

 

 

 

 

11月のベビーマッサージのお知らせ

11月のベビーマッサージは下記のとおりです

 

期日      11月25日〔水)

時間      10時~11時30分

持ってくるもの シート オイル 着替え

タオル

10月のベビーマッサージ終わりました

奏央ママ

10月21日ベビーマッサージ (2) 10月21日ベビーマッサージ (4)

10月21日ベビーマッサージ (5) 

生後すぐからかけ込んでマッサージを受けています。
最初から母乳の出が悪く 毎回たくさん励まして
もらえて ようやく三ヶ月をのり切ることができました。

まだまだミルクを足しながらですが、息子に母乳を
吸ってもらえる嬉しさを力にかえて母乳育児を頑張って
いこうと思います。

先生はいつも適かくに成長ぶり当てられるので、
ビックリすることが多いです。
霊的なものとか、いろんなものが

実はみえる人なんじゃ、、、?

これからも頑張りますのでよろしくお願いします。

次回は11月25日ベビーマッサージです

時間          10時~11時30分

もって来る物     オイル 着替え シート

とても過ごしやすい季節となりました

よい育児ができますよう、、、に

 

9月ベビーマッサージの体験記

DSCF4603 DSCF4604

瑛人ママ  2015.09.09

今回で3回目のマッサージをお願いしました。
初めての時は毎日毎日、母乳が足りているのか不安で
ミルクを足したほうが好いのか悩んでいたのですが
先生から母乳だけで大丈夫といわれ、安心したのを覚えています、
マッサージをうけるとすごくおっぱいが柔らかくなって気持ちいいし
先生がアドバイスしてくださる事で心も軽くなっていきます。
今日はありがとうございました。

DSCF4602
篤志ママ   2015.09.09

私は初め 母乳があまり出ておらず、子供も吸う力が弱く、混合で
毎回ミルクを足していましたが、マッサージとアドバイスのおかげで
今では完全母乳になり、子供もムクムクと成長しています。
外出時も楽で、夜も母乳で寝てくれるので助かりました。
本当にありがとうございます。

DSCF4601 DSCF4600
咲希子ママ  2015.09.09

何度も詰まらせては毎回先生に助けて頂いております。
初めての育児で分からない事も多く、その度に色々なアドバイスを
適切に下さり、おっぱいも心も軽くなれる場所です。
9ヶ月の娘もすでに体重が二桁、病気知らずで健康、、
全ては完全母乳に導いて下さった先生のおかげです。
これからもずっとお世話になると思いますが、
末永くよろしくお願いいたします。

 

9月 ベビーマッサージのお知らせ

8月は長いお盆休みと,あまりの暑さのため

お休みとなりました

9月のベビーマッサージは

9月29日(火) 10時~11時30分

持って来る物

バスタオル オイル シート 着替え

お待ちしています

ところで今回の台風はひどいものでした

DSCF4586 DSCF4592 DSCF4594 DSCF4597

マタニティハウスの被害です

名物の栗がほぼ100パーセント落下しました

枝もたくさん折れてひどいものです。 こんな時農家のみなさんの

ご苦労がよーくわかります。お見舞いもうしあげます。

がんばって復興されるようお祈りします。

ところで写真に立派なクリが写っていますが落下した実は

未熟ものでおいしくありません。長年の経験でよくわかります。

今年は雨が多いもののよい気候となりました。

元気ですごしましょう。

のぶたん紀行

のぶたん紀行  (2013/08/25)

人は誰でも自分のことしか分からないのが常識であろう。
下手をすると自分のことも分からず.分かろうとすらしない人にも沢山出逢ってきた。
この不思議で不可解な世の中を.分かりやすく頼りやすく優しく説いて大勢の人々の信頼を
勝ち取ってきたのが宗教である。 と云うのが通説。

アルバム 471 アルバム 962

心理学では潜在意識が95パーセントを占めており.自分が何を望み何をしたいのかわからず
ほとんどの行動は5パーセントの顕在意識によって.目の前の事象に振り回されているのだと云う。
勿論この原則を理解して逆利用している成功者も沢山いるのも事実である。

貧しい時代には目の前のあてがわれた仕事に.何も考えず黙々と働き歳を重ねていった。
平等を求め人並みになることで.ある程度満足していた。
時代が進み.豊かになると順調な人生なり生活に変化が欲しくなる。多様性を求め始めるのである。

多様性が達成されてくると今度は差別化を考え始める。 ところが差別化は中々難しい。
余程.人生にこだわりや哲学がしっかりしていなければ.ただの変わり者となるからである。
このことは誰にでも出来る事ではない。

そこで多くの人々が始めるのが自分捜しである。 多様化と差別化を同時に達成でき.比較的
易しそうにおもえる。  自分は一体何者で何処から来たのか. 本当は何をしたいのか.
どんな人生を望んでいるのか と。

それに加えて人生の意義を考えはじめる。 意義を捜し求め自分への解答をキッチリ掴めた人は
幸せと言えよう。 ほとんどの人は捜すことに疲れ.そして飽きて以前と変わりなくただ放浪する。
上記の問題がそうそう一般の人に見つかるとはとても思えない。

アルバム 1577

そもそも自分とは.などと考えた事が無いと言う人が半分以上ではないかというのが過去の印象
である。 宗教も哲学も必要とせず坦々と成長し坦々と歳を重ねていき.余計なことは考えない人に
沢山出逢ってきた。 経済的.世俗的に成功を収めた人々に多く見られる気がする。

悩みといえば経済的な苦労位で.事業家であれば資金繰りであり.サラリーマンであれば呑み代や
遊び代などを云い.この世の問題の九割は金で解決すると自信を持って言う。
と言うことは.人間特有の悩みを持っている人はわずか一割ということになる。

アルバム 919

潜在意識を度外視して考えると以上の論議となり.世の中の構造は簡単.明瞭となり誠にめでたい。
ところがこの世がややこしいのは周知のことで.そうそう簡単に物事は解決していかない事は誰でも
経験済みである。 問題解決の糸口はこの先の思考にある。

人間は休息が必要である。 最大の休息が睡眠である。 どんなに頑健な人でも必ず眠る。
睡眠は天皇からホームレスに至るまで他人の手を借りる訳にはいかない。 自己責任である。
悩みは脳で行い.脳の働きは自分で行い他人は手出しできない。 口先で他人の脳にあれこれ

刺激を与える事は出来るが.どう処理するかは本人の脳の働き以外あり得ない。
テコでも動かない頑固者に相対した時のことは誰でも記憶があるはずである。
釈迦でさえ (縁無き衆生は度し難き)と嘆いている。

従って安眠出来るかどうかは全く本人次第なのである。  (安心立命) という仏教最大の教えの
一つは.心が安らかになって初めて命が救われるとのこと。
では一体どうすれば良いのか?

メシを食うという飢餓との戦いと並んで人類の永きに亘る命題がこれであった。
ザックリ分けるとメシ派とナヤミ派と中間派に分かれる。

アルバム 1404
解答の無いこの命題について.哲学者は考え続け様々な説を唱え.宗教家は我の教えに従えと云い
マントラ.南無阿弥陀仏.南無妙法蓮華経.を唱えることを勧め.瞑想を奨励し.小乗仏教では
艱難辛苦を自分に課し千日行などをして.悟りといわれる答を捜してきた。

そんな中で悟ったと云われる人から果たしてどれ位の人々が.影響を受けたのであろうか。
中村天風師の教えを直接受けた何人かの先生方とお付き合いをさせて頂いたが様々の反応が
あった。 ある方は五人の友人と共に教えを受けたが残ったのは自分だけと仰っていた。
ある方は自分だけカバン持ちで修行したといわれた。

また高野山で千日修行を修めたという大アジャリで悟りの境地に居る寺院の住職と二時間以上話を
する機会があった。 さぞかし高邁なお話が聞けると襟を正していた。
ハワイは良い所でゴルフをするのにとても良い.全部で42箇所ありすべて廻りましたと言う.
昨年は名球界の張本.衣笠等と廻った. また王貞治は~~~.  であった。

無名有力.有名無力というが人に影響を与えるべき人がこの有様では先が思いやられる。
こうして世の中を嘆くようになったら歳をとった証拠といわれる。
若者は今だけを生きている.過去を知らぬ為に以前と比較して嘆く必要がないのだ。

悩みも簡単な事柄である. では中高年の悩みは高尚なのかといえばこちらも似たり寄ったりである。
宇宙飛行士が宇宙から地球を眺めて生き方を変えてしまうと言う話を良く聞く。
とんでもなく微妙なバランスの上に成り立った我々の儚く刹那とも思える人生に気付いた時
.世俗の物欲や見栄が全く虚しくなると言う。

安眠出来るか出来ないかの問題は.このあたりが中心問題であろう。 しかし悩みの渦中にいない
人が周りで偉そうなことを云っても当人の耳に入らないことは誰でも知っている。
ここに至ってやっと肝心の要点に到達したようだ。

アルバム 919アルバム 513

自分捜し.悩み.不眠 色々言って来た.その解決法もたくさんあった。それ自体が人生とも云える。
現代ではこれらの事を考えるのが肉体やDNAにとって最も害悪である事がハッキリしてきた。
先に余計な事を考えない人の世俗的な成功の可能性が高いと述べた。此の事である。

これは殆ど性格的というか生まれつきであってそうではない人は損な生まれ.なのかとなる。
人生は奥深いものであって.味わうべきものが気の遠くなるほど沢山ある。 一方で人に与えられた
時間は平等である。

世俗的.経済的.目の前の出来事に夢中になれるタイプの人は毎日が忙しく自分捜しや意義等
考えている暇は無く.興味も無いであろう。 従って此の方面の事情には疎くなるのが自然である。
世俗的分野で成功する確率が高いのはこのためである。 なにをもって成功というのは別の事。

考えすぎる人はロスが多い分だけ芸術.文学.等の造詣が深くなる. 天は二物を与えずと言う
言葉は当たっている。 ところが見渡してみると二物も三物も与えられている人が結構いて
世の中がややこしくなるのである。

人間は社会的動物である。と昔から言われてきた.つまりキョロキョロと人の真似をして成長してきた。
親や周りの人々の真似をし言葉を覚え行動を見習って一人前の様になっていく。
社会学者が良く分類をしているが.多くの場合分類どおりにいかないのが普通である。

人はその数だけ顔の数だけ異なっているが周りを見て暮らしている以上どうしても世俗的な成功
を求めがちになるが.やむを得ないことであろう。 それでも尚自分らしく生きねばならない。
このことは道徳的に云っているのでは無く.潜在意識に反して生きる事で本来その人が持って

いる能力がスポイルされることのマイナスを懸念しているのである。

アルバム 919

 

紀行文に少し飽きてきたのでボーッとしていたらいつの間にかこんな文章になっていた。
読み返してみたらレベルが低い。日頃はもう少し高尚なことを考えて居るつもりであった。
近頃.あさドラで あまちゃん と言うのを放映している. 内容は現代の若者の生態を描いた物で
ストーリー自体はとりとめのないことだが.周辺を描く幅の広さは半端ではなく原作者の能力には
脱帽せざるを得ない。

この作家は勿論若くもあるが世の中が良く分かっておりこの先が楽しみである。
そこへいくと自分の表現能力にはがっかりする。
若い頃から磨いてきた力は一丁一石には真似が出来ない.

アルバム 339

70歳の今からでも少し磨いてみようかな?  これでも昔は文章を書いてクラスメートに回し
皆がクスクス笑っているのを見て喜んでいた時期があった。
誰かが 青春とは年齢を言うのではなく心の持ち方をいうのだ。 と云ってていたがさすがに

70歳では青春といえない。しかし 何もかも興味も関心も持てず周りの喜び悲しみにも同調
出来ないとしたらそれこそ孤独の極みである。 友人に75歳でビデオの編集やパソコンの
名人がおり毎日を生き生きと暮らしている。 尊敬すべきことであり真似をしたい事である。

前に人生は悟らないほうが良いと述べた。 悟って孤独になるよりバカになったほうが良い。
女性は悟らないと悟って女人高野を建てた弘法大師は1300年前の人。 70歳の99パーセント
が居ない時代には悟った様な顔をしても許して貰えたかもしれぬが今では通用しない。

嬉しい.楽しい.辛い.悲しい.全て経験済みで退屈かもしれないが何でもよいから味わおう。
何故なら あなた 他に何か大事なすべき事ことがありますか。
現役世代と変わりなく戦っている方には大変失礼しました。 おおいに結構な事で喜ぶべきこと

です。 但し今は現役としていても必ず降りざるを得ない時が来ると思う。 知り合いに規模は
小さいが歴史のある大学の学長を長く務めた人がいる。 その人と家族.親戚は自慢高々で
いつもその話題でもちきりであった。

アルバム 1405

ところが部下の教授や事務局は90歳を超えても.誰よりも早く出勤し誰よりも熱心に仕事をこなす
ので.大いに迷惑し辟易していた。しかもその根底にある人生感覚は明治であり大正のそれで
あった。 これでは人材が育たず組織の衰退は免れ得ない。

マッカーサー元帥の (老兵は死なず ただ消え去るのみ) この言葉は今も生きている。
老害は本人が自覚しないし. したがらないので始末にこまる。
理想は.その人の後姿を観て 誰もが ああ. いい人生を生きている人だな~と思ってもらえる

生き方を実現する事であるとの結論に達したと思ったが.これも賞賛を期待しているようでもあり
何となく物欲しそうにみえる。 しかしそのことを謙遜の美徳とばかりに押し隠そうとするタイプの
人が時々見かけられ. これも年配者のズルサがありありと表現されておりイヤラシイ。

さあイヨイヨ佳境に入ってきた. 結局何を言わんとしているのか分からなくなってきた。
安岡正篤師の (老荘のこころ) の中にこんなくだりがある。
在る県の知事が余り目立ったこともせずに素晴らしい業績をあげていた。 この事が評判と成り

その人の耳にも入るようになった. 知事は自分の業績と分かるようでは自分はまだ修養が
足りないと嘆いたと言う。 目立つ事。シャシャリ出る事。自己主張すること。宣伝する事。が
成功と金儲けに繋がる現代には懐かしい人柄である。  価値観はこれ程変わるものか?

(2013/08/25)   I N  熊本

 

7月ベビーマッサージ終了と8月のお知らせ

7月のベビーマッサージは下記のとおり終了しました

DSCF4518 DSCF4519 DSCF4520 DSCF4521 DSCF4522 DSCF4523

 

8月は21日〔金〕です

時間     10時~11時30分

持って来る物 着替え バスタオル シート

オイル

参加費    1000円

引き続き マヤ暦による子育てワンポイントアドバイス

を希望者にいたします

このたびはホームページが一週間ほど行方不明

となりました。ご迷惑をおかけしました。

ご連絡いただいたこと心より感謝いたします。

 

槍ヶ岳

槍ヶ岳
穂高の次は槍と相場が決まっている。
富士山の次に有名で日本第5位の高さを誇る槍ヶ岳はその鋭利に尖った形で余り登山に趣味
の無い人でも写真を観ただけで一目でわかる姿をしている。

百名山の内17座を占める北アルプスは日本の屋根と云われており3.000Mを超える名山が
連なり.山が好きな人にとってはたまらない魅力のある場所である。 その中でもとりわけ人気
のあるのが前回の穂高と今回の槍で山好きは槍.穂高と言って何回でも行きたがり憧れている。

DSC_0927 DSC_0928

今回は表銀座コースで温泉と自然を楽しんだ。 松本駅から大糸線で日本列島が分断されてい
る事で有名な糸魚川へ向かって汽車に乗る。 九つ目駅の穂高駅で降車。 8月の盆までなら
バスがあるが8月23日なのでタクシーで中房温泉に向かう。 同行者を捜すが残念な事に誰も

居なかった。 6000円は痛いが他の選択肢は無い。 中房温泉は信州を代表する温泉で
勿論.全て掛け流し。庭内の至る所からでる温泉の成分は様々で湯船の数なんと14~15を
数えた。 無理して山を目指さなくてもこの山間の温泉でユックリするのも一興と思われ.人気

DSC_0929

の理由が分かった。 次回の為に一風呂入ってから散策をする。標高1450Mで上高地とほぼ
同じ. 涼しいはずである。 下駄を履いて点々とある露天風呂などを見て廻る。
中房温泉から表銀座コースは始まる。 2.762Mの燕岳まで1.300Mの標高差を一気に登り

合戦尾根を越える事になる。 中間地点に合戦小屋がありスイカとビールを売っていた。
スイカは8分の一で700円だが2.000Mの山の中腹でスイカを食べられるだけで有難いと
量子が喜ぶ。 このコースは急登ではあるがベンチや小屋が立派に整備されており慌てなけれ

DSC_0931 DSC_0930

ば困難ではない。 合戦小屋の上のベンチで休んでいたら.下って来た人が大声で話していた。
昨晩.熊が出たと言う。 テントで寝ていたら近くで何かゴソゴソ音がする。キツネか何かだろうと
目を凝らして見たらキツネどころの大きさと違う動物であった。 熊だーー。

近くにあるゴミ箱をあせりに来たらしい。  4~5人のパーティであったが.その話が面白かった。
何はさて置いても逃げるしかない場面で (こいつがテントを持って逃げようとしてグズグズして~)
危ない目に遭ったと言う。 火事の時に枕を持って逃げ出したと言う話は良く聞く事である。

冷静さを欠いた場面では後で考えると笑い話のようなことがあるようだ。
面白可笑しく高度を稼ぐと1.300Mの登りは何ともなかった。 稜線に出ると急に視界が開け
燕山荘がそう遠くない所に見える。此処からは北アルプスの大半が展望できる。素晴らしい景色

でこんなに高い稜線は2年ぶりだ。 天気の良いのは日頃の行いの良さの証明か。気持ちが
のびのびする自分に気づいて.ヤッパリこういうところが好きなのかなあと今更納得する。
360度の展望は下界からは中々姿を見せてくれない3.000Mの名山達を一目で望むことが

DSC_0933 DSC_0935

できる。 北アルプスの主な山々を見ながら量子が深呼吸をする。
遠くに今回の山行の目的地 槍の穂先が見える。 下界であんなに遠くまで歩くと聞けば
気が遠くなるような遥かな距離なのに 楽しみで心が弾む。人間の心の不思議さである。

雷鳥の鳴き声がする.なるほど雷が鳴り始めたかと思うような声だ。 動物の糞が時々見つかる。
先ほどの話が頭をよぎり量子が熊の糞だと言う。 夜ならばこんな所は歩きたくない。
昼過ぎには燕山荘に到着.荷物を置いて燕岳山頂を目指す.15分の距離だ。

広々とした燕岳周辺でノンビリした後小屋に戻り生ビール(800円)で乾杯。
遠い遠いあの槍ヶ岳まで今日を含めて行くだけで2泊3日で目指すことに思いを馳せなが
燕山荘の夕暮れ近い午後を味わっていたら.小屋の主人がホルンの演奏をしてくれると言う。

DSC_0932

スイスから取り寄せたというホルンは広々とした燕山荘の周囲をスイスのアルプスを彷彿と
させる音色で宿泊者達を楽しませていた。

早朝5時に起床。摂氏五度。震えるほど寒い。穂高.松本方面に御来光が期待できる。
天気は素晴らしいのだが地平線の彼方まで雲海で埋まっていた。
5時15分 みごとな御来光に出会う。 幸先良い朝の幸運な出来事であった。

今日からは2.500Mクラスの稜線を雲上の散歩とシャレよう。
大天井岳(2.922M)までは比較的楽に行ける。常念山脈の最高峰で360度の展望が楽しい。
余りにも景色が良いのでノンビリしていたら.遠くで聞き覚えのあるイントネーションがきこえる。

耳を澄ませて聞いていたらなんと熊本弁ではないか。 玉名に在住の知人が5~6名のパーティ
で来ていた。 こんな所で出会う偶然にお互いに驚く。 上高地から常念岳に登り燕岳を廻って
中房温泉に降りると言う。 このルートも手軽でよいコースと思う。

雲の上のハイキングは西岳(2.758M)まで続く。西岳ヒュッテが今日の宿。槍の肩まで行こうと
思えば行けたのだが無理をせずにユックリ行く事にした。
この小屋は小さく余り人気のある所ではない。表銀座コースでは無理をしない人の為の中継点

として使うとよい。 このように銀座と呼ばれるだけあって点々と小屋があるので時間さえ掛けれ
ば大抵の人が味わう事が出来るコースとなっている。 西岳ヒュッテでは宿泊者も少なく静かに
眠る事ができた。 翌朝6時出発。 今日の槍までのコースは少しばかり難所を控えている。

東鎌尾根・水俣乗越・を通ってヒュッテ大槍を過ぎて槍の肩まで行く事になる。
北アルプスの最も奥深い所を通ることになる。 当然大昔から道が付いていた訳ではない。
上高地や中房温泉から槍ヶ岳に行くにはどこが一番安全で近いのか.色々な人がルートを

探ったと言う記録が残っている。 そんな郷土史家のような研究をしたわけではないが.渓流釣り
のお陰で北アルプスのルートに詳しくなった。この10年位渓流釣りにはまっていた。ハマッタ
という表現は大袈裟な意味ではなく釣りを経験した人はほとんどうなずく位.共通している。

釣りを始めた途端に禁漁期間に入ってしまい.そんな期間があることも知らずに居た為.完全に
禁断症状が出てしまった。 違反をして10月に入ってから釣ってみたが(さび)といって黒く痩せて
おり味も不味かった。 こんなことなら禁漁期間は魚を温存したほうが後々の為にもよいと納得。

納得はしたものの禁断症状は無くならない。 イライラしながらどうしたものかと思案した挙句.
行き着いたところが図書館であった。ネイテブ志向の為釣堀ではプライドが許さなかったのである。
熊本県立.市立.福岡県立.市立.佐賀県立.市立.その他中小図書館を片っ端から廻り渓流釣り

関係の本を借りてきて読み漁った。 何故そんな遠くへ行ったのかって? マイナーな渓流釣りの
本が沢山揃っている所などそうザラには無い。 多くて精々10冊あれば良い方であろう。
佐賀市立図書館が最も多く揃っていた。 こんな経験のお陰で北アルプスの新ルートを開発した

小林喜作のことを知り得たのであった。 10月~2月末までの6ヶ月間で何と80~90冊の渓流
釣りの本を読んでしまった。これは決して自慢ではない。何故なら山本素石の釣り紀行を読めば
引き込まれる事疑いなしである。 素石の著作は15~16冊あったと記憶している。

DSC_0959

昔から釣り協会なるものが全国に沢山存在しており全日本的なものでは岸信介が名誉会長
を長くつとめ今西錦司京大名誉教授がその後を次いでいた。著名な作家達の本も沢山出版さ
れており.お薦めは開高健の数冊の釣り紀行である。

渓流釣り.とりわけネイティブヤマメ釣りは我流では3年間.一匹も釣れないといわれている。
自分が比較的早く釣れたのはきっと放流物であったのだろう。 大分の大野川最上流であった。
釣りの先輩から簡単には釣れないと聞かされていたので自分は天才だと有頂天になった。

この事がきっかけでその後10年間全国の山登りと釣りが始まる事になる。

DSC_0960

 

渓流釣りは最上流の沢を登りながら釣り上がっていく。滝や砂防ダムに行く手を阻まれた時には
少し戻って巻き道を探すのだが.道などあるはずがない。 それこそブッシュマンではないがヤブを
掻き分けて滝の上流をめざすのだ。 タヌキ.イタチ.シカ.ネズミ.ヘビなどと出会う事.珍しい事では無い。

そんな苦労を苦労と思っているようでは渓流釣りはできない。むしろ時折現れるゆるい流れの
川幅の広い所で.まぶしいような新緑の中.飲んでしまいたいような澄んだ清流のほとりに腰を落とし
おにぎりを食べたり釣ったやまめのワタを出したりして過ごすひと時は何時にも変えがたい法悦で

ある。 渓流釣りは動く座禅とも言われている。 実感する言葉だ。 流れに餌を流し一心に目印に
集中する。 目印が動く.一瞬の反応が勝負。 そう勝ったり負けたり.魚との命を掛けた格闘技で
あり現代では唯一.身体ひとつの狩猟であろう。 これら一連の動きのあいだ.餌をつけたりポイント

を捜して移動したりするのだが全く何も考えず (無) の境地になれる。
こんな事があった。 大分の九重の最上流(筑後川)で午前10時に川に入った。数匹のヤマメを
ゲットしてほんの少し楽しんだと思い川をあがった。 午後4時であった。 量子は読みたい本がある

と言う事で安心していたが.あっという間に6時間が経っていたのである。これは余りにも酷すぎる。
量子はキャンピングカーの中で泣いていた。反省した。 ことほど左様に (無) になれる。
前述の山本素石の著作ではカッパが出てきたり得体の知れないオバケ的なものがでてきたり

して誠に面白く.何でこの人の本がメジャーにならないのかと不思議なくらいである。私生活の件も
実に面白.可笑しく描かれており.例えば素石の所属する釣りクラブでの第一の条件として離婚経験
が挙がっている。それ位釣りが好きで嫁さんに愛想をつかされた人というのが条件だった。
ツチノコと言う変なヘビみたいな怪物を世に広めたのも素石であった。

ここで女性には嫌われるが正論を一つ紹介しよう。
結婚は 判断力の欠如
離婚は 忍耐力の欠如
再婚は 記憶力の欠如

釣りの事になると槍ヶ岳には行き着かない。しかしこれらの本の中で小林喜作を知る事になる。
彼は今では姿を消してしまった職猟師で北アルプス周辺をテリトリーとして活躍した人物だった。
山本素石によると非常に変わった人間だったらしい。下界での一般的な人間関係が不得手で

山の案内やイワナ.ヤマメを周辺の旅館や山小屋などに卸して生活をしていたと言う。明治8年生
であるから重い粗末な布をテント代わりにして一週間~10日間魚を腐らないように燻製をかけ
ながら釣って歩く。荷物が一杯になるまで野宿の連続である。 オバケ話はこういう時に生まれる。

こんな生活であるから当然北アルプスには誰よりも詳しくなっていた。当時中房温泉からの縦走路
は4日も5日もかかっていたのだが.喜作は後に喜作新道とよばれるルートを開発して2日でいける
ようにしてしまった。 前述した水俣乗越の先に山本喜作のレリーフが設置され功績を称えている。

近くに殺生小屋があり喜作が建てたものと聞いた。 ヤマメをたくさん殺生したとの思いがあったの
だろう。 上高地でも上條嘉門次という山の案内人が有名になった。 そんな物語を思い出しながら
喜作新道に挑む。 西岳ヒュッテでバイトをしているネパール人が付いて来たのだが重装備の我々

と違ってGパンにスニーカー姿であった。 両手をポケットに突っ込んだまま急斜面の岩場を猿の様
にトン.トン.トンと平地を走るように飛んでいった。 陸上競技でアフリカの選手にどうしても勝てない
日本人選手を思い出した。  結構歩きにくい岩場を猿を羨ましく思いながらとうとう槍ヶ岳山荘に

DSC_0939 DSC_0940

到着。  荷物を降ろしてホッと一息するが. すぐ目の前に槍の穂先が迫っている。 100Mの上。
ウズウズして来た。 疲れているのも忘れて山頂を占領しようと登り始めた。 ほとんど垂直といって
いいような槍の穂先に取り付く。 量子は下を見ないように必死に両手で岩にしがみついて登って

 

来る。 怖い怖いと言いながらもこういう時は結構気丈に動く。それでもピーク真下のハシゴは
完全な絶壁で20Mを一気に上る。 量子は完全に気絶状態のまま顔だけ笑って頂上制覇。
よく頑張ったと思う。  3.180M 日本第5位の頂上は狭く.すぐには手を離して立てない。

DSC_0943 DSC_0942

15人もいれば一杯になりそうな広さである。段々慣れてきて立って歩く。三角点と祠の前で記念
撮影をしていたら何とゴムぞうりを履いた若者がいるので驚く。 その隣にはコンビニの弁当を
食べている若者がいる.余りにも軽装なので話しかけた。彼は今朝.上高地を発って今着いた所

だと言う。驚くべき体力であり速さでこれも小林喜作のお陰か。多少ガスがかかっていたが360
度の展望が素晴らしい。すぐ100M下に槍ヶ岳山荘の赤い屋根が象徴的に映る。 650人収容の
最大級の山小屋で食事も中々のものであった。 混雑時には3000人泊まった実績があると

DSC_0944 DSC_0945

聞いたが本当だろうか? 山小屋は命にかかわるので断れないことからあり得ない事ではない。
談話室にはたくさんの本が置いてあり退屈しない。  少しだけ疲れた。 熟睡  熟睡
翌朝は6時起床。 気温3度~さすが~今日は8月27日  再度山頂を目ざす。

360度の展望であった。 この景色はやはりここまで来なければ味わえない。所どころに雲海が
あるが素晴らしい眺めでウットリする。 直後多少の雲海がとんでもない幸運をもたらしてくれた。
ブロッケン現象が現れたのである。 この現象は太陽を背にして少し下に霧や雲があった場合

DSC_0948 DSC_0947

にのみ.円い虹が現れる。 そして円の中に虹を見ている本人の影だけが映るという極めて珍しい
条件に遭遇したのであった。 その幸運にしばらくの間酔っているかのように楽しんでいた。
3.180Mでの嬉々とした数十分はその前後の苦闘を忘れ.余りある充実感と (無)の境地を体験

させてくれる。 下界でも同じであるが苦労してきたから今の楽な環境を喜べる。 悲しい体験を
嫌というほど味わってきたから何も無い今の状態が嬉しいのだ。
誰でも分かっている説教はウンザリだが 時折この原点に戻らなければ忘れているのが普通の人。

さあ小屋に戻って500円のコーヒーを味わおう。
今日は大喰岳(3.101M).中岳(3.084M).南岳(3.032M)まで行き.出来れば大キレットを超え
て穂高連峰の北穂高岳(3.106M)まで行きたい。稜線にこれらの山々がクッキリと見えており

3.000Mの天上散歩に誘ってくれている。 天気上々。 又とない幸運の気候に感謝。
南岳まではアップダウンも少なく楽々で到着。 小屋には50代の女性主人が一人で頑張って
いた。 少し休んだ後.小屋のすぐそばから大キレットが始まっており.量子と覗きに行った。

これが失敗であった。 飛騨泣きと云われる強風がいつも吹いており両側が数百メートルも落ち
込んでおり北アルプス最大の難所と言われているところである。 臆病な量子に事前に話したら
絶対に行かないと言うに決まっているのでこの時まで内緒にしていた。 案の定であった。

大キレットを覗いた量子は絶対に行かないと言い出した。 午前中であったので久しぶりに量子を
口説きにかかった。 ここに一泊しても.明日でも良いからと3~4時間かけて必死になって説得し
た。 数十年前を思い出してその時よりも熱心に口説いた。 しかし紅顔の美青年熊本の加山雄三

も.依る年月には勝てず.まして片方で年金を申請する精神では口説き落とせるはずもなかった。
残念無念とうとう断念せざるをえなかった。 ま、いいか、奥穂高岳と涸沢岳には登っている。
槍沢も通りたいし.天狗原の池で逆さ槍も見たい、大キレットは次回挑戦しようと言い聞かせて

DSC_0954 DSC_0946

上高地に下りる事に決めて南岳小屋に泊まった。 80人定員の小さい小屋で宿泊者も数える程
。アルプス銀座にしては静かな夜であった。 槍沢は鬱蒼とした森のなかであった。
これでなくてはイワナの餌が川を流れない。 さっそく隠し持っていた折り畳み式竿とテンカラで

(疑似餌)腕を試す。 2投目で凄い引きがある。 やはり自分は小林喜作なみの渓流釣りの

DSC_0960

 

天才なのだ。 29センチメートルの泣き尺であった。 30センチをこえることは日本の川では
勲章なみのことなので1センチ不足は悔し泣きということになる。 しかも疑似餌となれば餌釣りの
10匹に相当すると言われており益々天狗になった。

山本素石に言わせれば.どんな分野にでも天才がおりテンカラなら10分で30匹上げるような人が
いたそうな。 尤も昔は川に入ると魚がウヨウヨする位いたと言う話もあり.羨ましいかぎりである。
この後次々に良型を5匹挙げ自分の腕を確認する。しかしここは国立公園で.木の葉一枚動かし

てもいけない所、泣く泣くリリース。 誰も釣らない所で魚がウヨウヨいたら誰でも釣れるわな~。
この天国のような所が槍沢である。 森の中に槍沢ヒュッテが待っていたがここは素通りする。
やがて数年前に泊まった横尾山荘の前に出る。ここも素通りすると大きな美しい川に出る。

懐かしの梓川が相変わらず澄んで滔々と流れている 川幅は広く物干しも揃っている。流木だ。
中房温泉を出て5日。 風呂は徳澤園にあるが問題は洗濯物。着替えは全て準備しているが
たっぷり汗を含んだ洗濯物の匂いが気になるのだ。  休憩がてら洗濯に励んだらスッキリした。

今日の泊まりは量子がお気に入りの (氷壁の宿)で名高い徳澤園ときめていた。
徳澤園では奮発して個室を希望する、久しぶりの奥上高地の清浄な空気を思い切り味わう。
近くにはキャンプ場があり学生達が上高地という幸運な場所での生活を楽しんでいた。

DSC_0961 DSC_0962

部屋も食事も程よく気に入ったので連泊する事に決定。
ここで少々前に戻らせてもらいたい。 天狗原のことである。槍ヶ岳の下にカール状の場所が
あり、そこに万年雪と池が存在している。 少し遠回りなので人は余りやって来ないが良い所だ。

風もなく待望の逆さ槍が見事に写っていた。ブロッケン現象と共に今回は幸運が続いた。
連泊すると言うことは休憩も兼ねて訪ねたい所があったのである。 (氷壁) の舞台になった
明神岳の屏風岩を見に行きたかったのだ。

作家 井上靖が徳澤園に長く逗留して山岳小説を書いたと云うその雰囲気だけでも味わいた
かった。 今では井上靖は話題に昇らないがこの人の (蒼き狼)は実に面白かった
ジンギス、カーンを見てきたかのように真実味があった。そして敦煌も。

こうして徳澤での楽しい日々の3泊はあっという間に過ぎた。

越し方は 一夜ばかりの 心地して 八十路(やそじ)余りの 夢を見しかな   貝原益軒

街を歩いても可笑しくないような服に着替えて、上高地のハイライト地域、明神池に向かう。
明神池は何度来ても美しい、池だけでなく周辺も鬱蒼とした森に囲まれ、梓川本流から少し
外れている、穂高連峰からの伏流水や湧水を満々と湛え神秘的な風景が心に残る。

明神池は日本アルプス総鎮守で嶺宮は奥穂高岳頂上に祀られその奥宮が、入り口に鎮まって
いる。 屈折した支流が至る所に流れ鴨やイワナその他の生き物を養っている。今では国立公園
となり 抑制を知らない現代人から動植物を守っているために彼らの天国となっている。

彼らの天国とは云ったがその楽園に入った我々こそ安堵感や美しさを感じるのであるから
共生という思想は大切にし、その恩恵を感じるまでに成長していない若者、子供達に何とか
継承したいと思う事は虚しい願いだろうか? 現在レベルでの地球環境はあと数十年が限界、

と言うのが専門家達の常識と言う。 今日の、目の前のグルメや快楽を我慢できない人々と
政治家や産業人、いや我々全ての人々の飽くなき欲望の犠牲となって自然が壊れていく。
残念だが解決策はなさそうである。

せめて上高地帝国ホテルでチョット贅沢にランチ(2500円)でも食べて槍ヶ岳とサヨナラしよう。
帰りのバスの中に買ったばかりの帽子(4500円)を忘れた事、今でも量子に叱られる。
2013/09/20  IN 熊本

奥穂高岳

2000.08.
奥穂高岳
世界の屋根をチョモランマが聳えるヒマラヤと言うならなら.日本の屋根は穂高連峰が連なる
北アルプスと言えるだろう。 その重鎮としてドッシリ構えているのが奥穂高岳である。
3190メートルは南アルプスの北岳に次いで日本第3位の高さであるがその差は僅か3メートル
で日本の屋根に相応しい堂々たる姿をしている。
3000メートルを超える山のピークが下から見える事は余りない。富士山を初めとする乗鞍.御岳
.などの単独峰位で 大体は前座の山々に囲まれており.覚悟して迫る者にのみその姿を現す。

DSCF3052 DSCF3041

登山口の上高地は標高1500メートルとはいえ有名な河童橋バス停のすぐ近くから穂高連峰
の全容をうかがうことが出来る数少ない場所で余りにも人気が高く入場制限している位だ。
前述したが上高地は登山でなくても軽井沢と並んで日本有数のリゾート地である。

穂高への登山は力量次第で 朝のうちであれば槍ヶ岳でも奥穂高岳でも極める事が可能で
ある(上級者)。 上高地は自然が素晴らしく登山の為に急いで通り過ぎるのは余りにも
もったいないと思う。 ユックリと日本一の自然を堪能しながら登山を楽しみたい人は徳澤か

その先へ一時間歩いて横尾に泊まる事をお薦めしたい。此処まではお風呂に入れる。
以前横尾に泊まった時は丁度紅葉シーズン(10月1日)で登山客が多く 一畳に三人寝る事に
なった。これはどういうことを意味するかと言えば横向きでなければならず.夜中にトイレに起き

たりすれば戻ったときは隣の人は仰向けでグーグーで人の入る余地など全く無くなる。
締め出された人は廊下に寝ていた。 こういう時は量子が頑張って余地を空けておいてくれる。
その為熟睡できる人は余程の達人であろう。 これに懲りた人は重い荷物ではあるがテントを

背負っていくことになる。 朝早く握ってもらっていたおにぎりを持って1500メートルの標高差
に挑む。 6時間位のハズだからおにぎりタイムを二回タップリとっても1時~2時には穂高山荘
に着くハズと出発。 何故こんなに大勢の人がこの時期に集中するのかが3時間後に分かる

ことになる。 横尾まで平坦な上高地であったのが槍ヶ岳方面と別れ突然山岳地帯に入って
いる. 始めはゆるい登りが段々急になってくる。 上高地の樹林帯は濃い薄いはあっても
緑一色(マージャンではリュウイーソー)であった。 ところが2000メートルを超えたあたりから

DSC_0968 DSC_0967

天然色に変わってきた. 予想していなかった。下からは見えていなかった。 赤.黄色が段々
多くなってくる。 自分としたことが忘れていた。 この先は日本三大山岳紅葉として名高い
涸沢であった。 山好きがよく言う (涸沢暮らしはやめられない) と

九州に居て10月 2日に紅葉などということは全く念頭に無い事であった。
そういえば白樺荘の主人が(上高地の紅葉は二時間の勝負です)と言っていたのを思い出す。
大袈裟な自慢に少し反発して.このことをすっかり忘れていた。

DSC_0971 DSC_0969

もともと山が好きで紅葉狩りにでかけて楽しんで居た方である。九州では全て味わっている.
ところが涸沢は全く違う。 色が違う.スケールが違う.新鮮さが違う.初めて見た紅葉であった。
すこしづづ序序に変わっていく紅葉ではなく.ある日突然気温が下がり一日で周りが全部

色が変わったという印象である。 キツイはずの登りが周囲の感動すべき紅葉の為に全然
苦にならない.というより忘れている。 シャッターを沢山押しながらこれでもかという紅葉を
堪能しながら登山というより遊んでいた。 2400メートルの涸沢はビックリする様な多くの

DSC_0970 DSC_0973

テントが紅葉とは違ったカラフルさで競っていた。 涸沢小屋は勿論満員だがもとよりここは
通過して穂高山荘を目指す。 ピークはもう見えているがここからの傾斜が急になる。今までは
紅葉に騙されて楽に来たが.森林限界を超えたこれからは涸沢カールの広さだけが取り柄の
単調な登りに変わる。 どの山でもそうだが見えているピークは遠いものだ。
ガレ場が続き結構キツイ思いで励まし合いながら登っていく。 小屋が見える.もう少しという
この辺がいつも.どこでも感じるキツサだ. 見えているというのは精神的に安堵感を与え逆に
残っている力を落としてしまう。

これも人生と似通っている。安心を得た変わりに同じ人.同じ場所で渦を巻いて暮らす。
そしてその人が歩いた道以外興味も知識も無い厚みの無い人柄を創る。
文化.教養は生きる糧を得る以外の莫大な人生の喜びであり楽しみなのだ。

ただ食って寝て垂れるだけの人生は(何かあるのが人生)のなかで一時期止むを得ないとしても.
明日を保障されていない命を刻んでいる人間として.余りにも危うくもったいなく思う。
過去は戻らず.明日は誰も知らず ならば今を精一杯味わうのが正解か。

3000メートルチョット山荘からの眺めはさすがに素晴らしい。 涸沢のテント村が小さく見える
午後二時であった。 荷物を置いてひとやすみ.いい気持。.奥穂高岳のピークが見える.早く
ここまでおいでと呼んでいる気がする。 150メートルの登り.行って来るか.

DSC_0974 DSC_0976

9.9合目と頂上の眺めの違いは千倍以上の違いがある。反対側が見えるからだ。
連峰の全てを確認する。 祠が3メートル以上の高さがありこれでは北岳の高さに匹敵すると
思われる。 しかし確か北岳にも祠があったので同じことかと納得。

西穂高方面にジャン.ダルムと険しそうなルートが見える。登ってきた山荘方面には涸沢.北穂高
そして量子が決して行こうとしなかった大キレットと南岳.槍ヶ岳と続く.素晴らしい展望だ。

人は何故? 山に登るのか。
余りにも昔から多くの人々の発した疑問である。 自分にも沢山投げかけられた言葉だ。
若いころは色々言葉を捻くりだして答えていたが今は何も言わない。

書物を何千回読んだら馬に乗れるだろうか。 理屈を何万回聞いたら泳げるようになるだろうか。
百聞は一見にしかず と誰もが知っている.これに加えたい言葉がある. (百見は一体にしかず)
百回見るより一回体験するほうが良く分かるということ。

山の魅力を子供の頃里山に強制的に登らされ.キツカッタ.と言う印象を持っているだけの人に
向かっての言葉など全く思いつかない。 心の中で興味があるなら一度行って見たら.と思う。
余り豊かでもない我々が何故上高地や尾瀬に.そして山に何度も繰り返し行きたがるのか。

DSC_0977 DSC_0964

結局の所。綾小路きみまろ。演劇鑑賞。歌手のコンサート。写真撮影。魚釣り。絵画。文芸。読書。
スポーツ。その他数え切れぬ程の娯楽の中の一つかもしれないのだ。
一つ云えることは後者は刹那的に数時間で経験出来ることで前者は大きな犠牲を払って数日間

全く異なった土地や環境に身を置くということであろうか。
どちらでも良い.いずれにしても同じことを繰り返すのが嫌いなだけなのだ。退屈が嫌なのだ。

エピソードを一つ忘れていた。横尾山荘に泊まった時.食堂に買ったばかりの旅雑誌を忘れて
戻り30分後捜しに行ったらもう無くなっていた。 大勢でごった返す小屋のこと.仕方ないかと
思ったら管理人がこの小屋で物が失ったことはありませんと言う。 ホンマカイナとの気持ちで

DSC_0966

諦めて寝てしまった。 翌朝管理人が雑誌を届けてくれたではないか。 やはり山は素晴らしい。
穂高からはまたあの美しい梓川に沿って気持ちの良い森の中をカモやイワナと遊びながら時々
猿を見かけたりして.上高地を通って帰るのかと思うだけで下りの辛さが半減する。

70歳になった。 アト何回いけるかな? たのしみです。

2013/08/14  IN 熊本

立山.剱岳.黒部

立山.剱岳.黒部 (2000/07/25)

日本一.富士山の次は最も恐怖を感じた剱岳を回想しよう。
弘法大師が草鞋三千足を費やしても登頂出来なかった.と言う伝説がある。此の言葉か.新田次郎作
(剱岳・点の記)の中で陸軍測量部が何度も挑戦してやっと登頂出来たという記憶からか.
怖がりの量子では難しい山と初めから構えていたところがある。

DSC_0989 DSC_0988

今でこそクサリ.ボルト.ロープがあるから登れるものの.役の小角という行者が登ったとされる昔
弘法大師も無理であったようにどこをどうやって登頂したのか不思議な位.岩が屹立していた。
明治40年測量部はハーケンなどの無い時代厳冬期を選び雪を利用して登った事になっている。
旨く考えたものである。 明治政府が国家事業の一つとして取り組み.

登頂の証明が出来るように準備までして.やっと登頂したら修行僧が使う錫杖がおいてあったという。
登山靴やピッケルに近い装備.服装もザックもはるかに進んだ明治の数百年も前に..おそらく
単独で.草鞋を履いて登った人はどんな超人でどんな意志をもった人だったのだろう。

興味深深であった。 以前来た時は観光でいわゆる黒部アルペンルートでロープウエイとバスを
乗り継いで黒部ダムまでいった。別の時には反対側の宇奈月温泉よりトロッコ列車で終点の
欅平まで行き.温泉につかったことがある。まさに深山幽谷の世界で何度でも来たいと思った。
その時の感動を少し記したい。 黒部峡谷鉄道である。

DSC_0992 DSC_0994
ダムを作る為とはいえ.とんでもなく急峻な渓谷に鉄道を通した昭和12年当時の技術と電源開発
の意志には驚嘆せざるを得ない..。スイスでも名峰ユングフラウの真下までトンネルを掘り鉄道を
通して観光客を3500メートルの地点まで運んではいるが.共に人間の凄さを感じさせる。

当然このトロッコは資材や道具を運ぶ為に通したものであって.人を安全に運ぶには適して
いなかったが余りにも探勝を希望する人が絶えない為.やむを得ず生命の保証をしないことを
前提に便乗の取り扱いであったという。

黒部峡谷鉄道は経験に値するトロッコだった。 さすがに凄い人気で 平日というのに
行列してやっと乗れた位であった。その上帰りの予約をしなければ何時帰れるか分からないと
駅員に言われた。 ビッシリと満員で自然探勝の気分が少しばかり削がれた気分で座った。

DSC_0997

そんな気持ちは動き出したら数分で吹き飛んでしまった。 まず渓谷の美しさ.木々の緑に目を
奪われ隣の知らない人々と接近したストレスを忘れる。 と言うより人々との共通の感動の中で
良きアドレナリンによる陶酔であったかも知れない。

黒部川の清流はあくまでも透明で渓谷の深さは立っていれば竦みそうであった。
自分が現場監督であればこんな場所に鉄道など決して通せなかったであろうなどと考えたりした。
カーブの連続でゆっくり進むトロッコは次々に乗客の驚嘆の声を誘い出す。

普段であれば恐怖で目をつぶったり手で顔を覆ってしまう様に見える人でさえ.周囲の感動に共感
して大喜びしている。 途中には駅が合計三つある.いずれも深山の急斜面に駅があり.こんな所に
誰が何の理由で住んでいるのか不思議であった。後で知ったが鉄道建設時の中継地として

使っていたところ.工事の人々の飯場が段々発展し温泉旅館になったと思われる。
これ程めったにない秘境で大勢の人々に自然の恵みを提供している事に感動を覚えた。
いずれ全ての温泉に泊まる事を決意する。

DSC_0995

一時間十五分の感動のトロッコの旅は欅平で終わる。帰りの予約まで二時間あり温泉をめざす。
予想通り秘境の湯は裸になる面倒を補って余るものがある。 周囲を探索し川遊びでのんびり。
量子は泊まりたい.何時までも居たいと言う。 正真正銘の秘境でさぞかし不便と思う。

DSC_0998

不便を忍ばなくてはこのような天国には住めない.ましてや旅館経営となれば阿蘇でレストラン経営
経験ある身としてその苦労が身にしみる。だから余計に泊まってみたいのだ。
ああ考えただけで深山幽谷の清涼な空気が思い出される。

DSC_0996 DSC_0991

 

立山から話が始まるはずが反対側の宇奈月方面に飛んでしまっていた。 立山駅からスタートする。
ロープウエイ.バス.ケーブルカーそしてバスと乗り継いで立山駅から2450メートルの室堂まで行く。
途中に美女平.ブナ平.弥陀ヶ原という高原があり寄ってみたかったが剱岳への想いでカットした。

その代わり日本一の落差(350メートル)の称名の滝の真下まで行ってきた。お経の様に聞こえる
と言われているが信心の無い身には只の滝の音であった。此の滝は数段に別れてはいるが.
さすがに大きすぎて那智の滝や華厳の滝のような一本の水流での趣とは少し違って見えた。

DSC_0978 DSC_0979

五月のゴールデンウイークに来た時は二十メートルの雪の回廊が開通しておらず半日位待たされた
記憶がある。 剱岳アタックは当然夏の事。室堂平と云われるだけあって起伏の少ない広大な高原
がひろがる。池やお花畑など退屈することが無い楽しい所。 立山三山まで500メートルの標高差。

室堂平は実に眺めが良い.楽しい嬉しい。 昔から信仰の対象として大勢の人々が登ってきた。
3000メートルの高山にしては困難なルートは無い。時間さえ掛ければ比較的登り易い山である。
雄山.浄土山.別山の山容が丸々見える開放的で明るいベースキャンプが室堂なのだ。

DSC_0981 DSC_0980

量子は此処も気に入っていて. ホテル立山に泊まりたがる。 此処だったら何日でも飽きない。
但し懐と相談しながらであるが。

立山三山は立山連峰と言われこのあたりの山々の中心といっても間違いないであろう。
昨日は立山駅付近に泊まっていたので室堂の散策もそこそこに雄山.浄土山.別山の三山を越え
剱岳荘(けんざんそう)まで行くことにする。どのピークだったか忘れたが水を満々と湛えた
黒四ダムがはるか下方に見えた。

3000メートルのピークから真下にダムが見えると言う事はこの付近の山がいかに急峻な勾配で
出来ているかを物語っており.それが黒部周辺の秘境を示している。
秘境であっても3000メートル付近の眺めは素晴らしいもので剱岳をはじめ周りの名山をほとんど

DSC_0989 DSC_0988

見渡すことが出来る。特に室堂方面の高原地帯の広がりは心がのびのびする。
剱岳荘は立山と剱岳の間に位置しており.剱岳に近く特徴は水が豊富な事。と言うことは
風呂に入れるという事。 ヤッター。  高い山で風呂に入れることは中々無いことでとても嬉しい。

DSC_0984 DSC_0982

こんな時の量子の喜び様は尋常でなく.大騒ぎでこちらまで楽しく嬉しくなる。
明日の岩登りを想像して緊張しながらも楽しみたい。小屋の人が明日は三時半~四時に起床を
薦める.珍しいことだ. 自己責任が原則の山でリードされたのは初めてであった。

三時半起床。 いよいよ憧れの剱岳山頂を目指すぞ。 真っ暗の中ヘッドランプを着けて外へ出る。
宿泊者全員が同時に出発という感じを受けた位.皆で行列を作ったように歩き始める。
これなら道に迷う事はあり得ないと思う. 2~3時間して明るくなり始めたころには.かなり高度が

上がっておりピークらしきものが見えてきた。 こんなに楽なはずは無いと思いながら登る。
勾配の急なガレ場を時々手を着きながら進む. 量子に上を見ながら行くように声を掛ける。
大勢の先行者がそれも自分達位の中高年の人々がガレ場を行く. このことが最大の恐怖であった。

落石の事である. 手を着くような急勾配で自由に動けない所。こんな所で落石に遭ったら.
と思って背筋が寒くなった。勿論ヘルメットなど用意しているはずも無く.とても心配しながら
約二十分の恐怖区間を無事通過した。 こんな時は疲れを感じる事がない.心配が先に立つから

である。南アルプスの北岳に行った時.数え切れぬ程の花が咲き誇っており.ハードな行程にも
拘わらず案外走破出来た記憶がある。 人生も同じような事を云う人がいる.嬉しく楽しく過ごせば
人生は あっと言う間だと。 織田信長.豊臣秀吉の辞世の句がそうである。

人生五十年 下天のうちを くらぶれば 夢幻の如くなり
露と落ち 露と消えにし 我が身かな 難波のことは 夢のまた夢
やっとピークらしき所にでる. 正面に見た事もない様な岩の殿堂が聳えている。本当にビックリした。
初めて感じられる岩で出来た剱岳の迫力であった。 穂高でも槍ヶ岳でも感じた事のない圧倒的
で凄い感動が湧いてきた。 ここが前剣と言う前座の山で.ここから有名なカニのタテバイがある.

 

前剣を少し過ぎた何の変哲も無い所に差し掛かった時.後ろでキャーッという女性の叫び声がした。
振り返った瞬間すぐ後ろの女性の膝から下が逆さまになって落ちていくのが見えた。木々の間で
あったし岩の殿堂の手前でよかった. おおーいと声を掛けると大丈夫との返事があった。

余り下まで落ちては居ないようだ. ともかく良かった.クサリ場で量子とつなぐ為に持ってきた
ロープを投げたところ暫くしてその女性が木につかまりながら自力で登って来た。ケガは無かった。
岩場の少し手前のホッとする場所だったからかも知れない。

(九十九里をもって道半ばとする) 緊張が解けたところで油断が生まれる古典の教えだ。
その証拠に最も危険なカニのタテバイでは滅多なことは起きない. 一つ間違えれば二百メートル
は間違いなくストーンと落ちていく様な絶壁が見えているので.誰もが最大の緊張を持って臨む。

草鞋3000足を費やしても登れなかったとの話を思い出す.確かに凄い絶壁である。
古来 我こそはの健脚自慢の人々が大勢挑みながらも果たせず.断念した経験からこの様な
伝説が生まれたのであろう。

今ではクサリ.ボルト.ロープのお陰で絶壁の下を見ないようにすれば殆どの人は登れるであろう。
とは言え日本有数の困難な山を制したとなれば.かなりの自信につながりどんな山でも挑戦できる
と思う。

DSC_0986 DSC_0985

2999メートルの山頂は素晴らしい眺めであった。 富山湾の形が見え能登半島の輪島辺りまで
見えて感動のひと時だった。 山頂での二人の写真があるがこころなしかへっぴり腰で写っている。
それにしても今更ながら量子がよく登ったものと感心する。

DSC_0987

凄い山に登ったにしてはまだ午前十時前 下山が始まる. さあ今度はカニのヨコバイだ。
カニのように岩にヘバリ付いて移動することからこんな名前が付いている。 この危険なルート
だけ上りと下りが分かれている。 下りの為足元が見えない.腕の力の弱い量子には怖かった様

で私も緊張した。おまけに足が短いのか下のボルトに足が届かずハラハラした。
此処までが記憶に残る楽しい思い出であり.剣山荘へは思いのほか早く戻ってしまった。
まだ昼前 今日はこの小屋にもう一泊の予定であったが.温泉に入ろうと急遽計画変更して

室堂へ向かう。 今日はみくりが池温泉に泊まってゆっくり温泉だ。お陰で心残りの室堂平も散策
出来る。2400メートルのリゾート地で最高地の温泉を楽しんだ。

この近くには後立山連峰がありその先には名峰白馬岳が連なっている。
とにかく清涼な空気が美味しい。 山川草木 全てが輝いている。
観光とは 光を観ると書く 輝くものを見たい.輝く人々と共感したいと言うのが人の心ではないか。

都会を輝いていると思う人.この自然を輝いていると思う人.それぞれであろう. しかし.
地球環境を考えた時.このまま都会的発展を目指したら数十年で快適な自然は無くなるであろう
と専門家の声が聞こえて来る。

こんなマスコミ的な知ったかぶりを言うと一方で孫の世代までの事は知らん.後進国の経済成長
を見たら行くところまで行くしかない。との声

世の流れを変えたり止めたり出来ない我としてはせめて美しき所を味わっておこうと思う。

2013/07/30   IN熊本