のぶたん紀行 (2013/08/25)
人は誰でも自分のことしか分からないのが常識であろう。
下手をすると自分のことも分からず.分かろうとすらしない人にも沢山出逢ってきた。
この不思議で不可解な世の中を.分かりやすく頼りやすく優しく説いて大勢の人々の信頼を
勝ち取ってきたのが宗教である。 と云うのが通説。
心理学では潜在意識が95パーセントを占めており.自分が何を望み何をしたいのかわからず
ほとんどの行動は5パーセントの顕在意識によって.目の前の事象に振り回されているのだと云う。
勿論この原則を理解して逆利用している成功者も沢山いるのも事実である。
貧しい時代には目の前のあてがわれた仕事に.何も考えず黙々と働き歳を重ねていった。
平等を求め人並みになることで.ある程度満足していた。
時代が進み.豊かになると順調な人生なり生活に変化が欲しくなる。多様性を求め始めるのである。
多様性が達成されてくると今度は差別化を考え始める。 ところが差別化は中々難しい。
余程.人生にこだわりや哲学がしっかりしていなければ.ただの変わり者となるからである。
このことは誰にでも出来る事ではない。
そこで多くの人々が始めるのが自分捜しである。 多様化と差別化を同時に達成でき.比較的
易しそうにおもえる。 自分は一体何者で何処から来たのか. 本当は何をしたいのか.
どんな人生を望んでいるのか と。
それに加えて人生の意義を考えはじめる。 意義を捜し求め自分への解答をキッチリ掴めた人は
幸せと言えよう。 ほとんどの人は捜すことに疲れ.そして飽きて以前と変わりなくただ放浪する。
上記の問題がそうそう一般の人に見つかるとはとても思えない。
そもそも自分とは.などと考えた事が無いと言う人が半分以上ではないかというのが過去の印象
である。 宗教も哲学も必要とせず坦々と成長し坦々と歳を重ねていき.余計なことは考えない人に
沢山出逢ってきた。 経済的.世俗的に成功を収めた人々に多く見られる気がする。
悩みといえば経済的な苦労位で.事業家であれば資金繰りであり.サラリーマンであれば呑み代や
遊び代などを云い.この世の問題の九割は金で解決すると自信を持って言う。
と言うことは.人間特有の悩みを持っている人はわずか一割ということになる。
潜在意識を度外視して考えると以上の論議となり.世の中の構造は簡単.明瞭となり誠にめでたい。
ところがこの世がややこしいのは周知のことで.そうそう簡単に物事は解決していかない事は誰でも
経験済みである。 問題解決の糸口はこの先の思考にある。
人間は休息が必要である。 最大の休息が睡眠である。 どんなに頑健な人でも必ず眠る。
睡眠は天皇からホームレスに至るまで他人の手を借りる訳にはいかない。 自己責任である。
悩みは脳で行い.脳の働きは自分で行い他人は手出しできない。 口先で他人の脳にあれこれ
刺激を与える事は出来るが.どう処理するかは本人の脳の働き以外あり得ない。
テコでも動かない頑固者に相対した時のことは誰でも記憶があるはずである。
釈迦でさえ (縁無き衆生は度し難き)と嘆いている。
従って安眠出来るかどうかは全く本人次第なのである。 (安心立命) という仏教最大の教えの
一つは.心が安らかになって初めて命が救われるとのこと。
では一体どうすれば良いのか?
メシを食うという飢餓との戦いと並んで人類の永きに亘る命題がこれであった。
ザックリ分けるとメシ派とナヤミ派と中間派に分かれる。
解答の無いこの命題について.哲学者は考え続け様々な説を唱え.宗教家は我の教えに従えと云い
マントラ.南無阿弥陀仏.南無妙法蓮華経.を唱えることを勧め.瞑想を奨励し.小乗仏教では
艱難辛苦を自分に課し千日行などをして.悟りといわれる答を捜してきた。
そんな中で悟ったと云われる人から果たしてどれ位の人々が.影響を受けたのであろうか。
中村天風師の教えを直接受けた何人かの先生方とお付き合いをさせて頂いたが様々の反応が
あった。 ある方は五人の友人と共に教えを受けたが残ったのは自分だけと仰っていた。
ある方は自分だけカバン持ちで修行したといわれた。
また高野山で千日修行を修めたという大アジャリで悟りの境地に居る寺院の住職と二時間以上話を
する機会があった。 さぞかし高邁なお話が聞けると襟を正していた。
ハワイは良い所でゴルフをするのにとても良い.全部で42箇所ありすべて廻りましたと言う.
昨年は名球界の張本.衣笠等と廻った. また王貞治は~~~. であった。
無名有力.有名無力というが人に影響を与えるべき人がこの有様では先が思いやられる。
こうして世の中を嘆くようになったら歳をとった証拠といわれる。
若者は今だけを生きている.過去を知らぬ為に以前と比較して嘆く必要がないのだ。
悩みも簡単な事柄である. では中高年の悩みは高尚なのかといえばこちらも似たり寄ったりである。
宇宙飛行士が宇宙から地球を眺めて生き方を変えてしまうと言う話を良く聞く。
とんでもなく微妙なバランスの上に成り立った我々の儚く刹那とも思える人生に気付いた時
.世俗の物欲や見栄が全く虚しくなると言う。
安眠出来るか出来ないかの問題は.このあたりが中心問題であろう。 しかし悩みの渦中にいない
人が周りで偉そうなことを云っても当人の耳に入らないことは誰でも知っている。
ここに至ってやっと肝心の要点に到達したようだ。
自分捜し.悩み.不眠 色々言って来た.その解決法もたくさんあった。それ自体が人生とも云える。
現代ではこれらの事を考えるのが肉体やDNAにとって最も害悪である事がハッキリしてきた。
先に余計な事を考えない人の世俗的な成功の可能性が高いと述べた。此の事である。
これは殆ど性格的というか生まれつきであってそうではない人は損な生まれ.なのかとなる。
人生は奥深いものであって.味わうべきものが気の遠くなるほど沢山ある。 一方で人に与えられた
時間は平等である。
世俗的.経済的.目の前の出来事に夢中になれるタイプの人は毎日が忙しく自分捜しや意義等
考えている暇は無く.興味も無いであろう。 従って此の方面の事情には疎くなるのが自然である。
世俗的分野で成功する確率が高いのはこのためである。 なにをもって成功というのは別の事。
考えすぎる人はロスが多い分だけ芸術.文学.等の造詣が深くなる. 天は二物を与えずと言う
言葉は当たっている。 ところが見渡してみると二物も三物も与えられている人が結構いて
世の中がややこしくなるのである。
人間は社会的動物である。と昔から言われてきた.つまりキョロキョロと人の真似をして成長してきた。
親や周りの人々の真似をし言葉を覚え行動を見習って一人前の様になっていく。
社会学者が良く分類をしているが.多くの場合分類どおりにいかないのが普通である。
人はその数だけ顔の数だけ異なっているが周りを見て暮らしている以上どうしても世俗的な成功
を求めがちになるが.やむを得ないことであろう。 それでも尚自分らしく生きねばならない。
このことは道徳的に云っているのでは無く.潜在意識に反して生きる事で本来その人が持って
いる能力がスポイルされることのマイナスを懸念しているのである。
紀行文に少し飽きてきたのでボーッとしていたらいつの間にかこんな文章になっていた。
読み返してみたらレベルが低い。日頃はもう少し高尚なことを考えて居るつもりであった。
近頃.あさドラで あまちゃん と言うのを放映している. 内容は現代の若者の生態を描いた物で
ストーリー自体はとりとめのないことだが.周辺を描く幅の広さは半端ではなく原作者の能力には
脱帽せざるを得ない。
この作家は勿論若くもあるが世の中が良く分かっておりこの先が楽しみである。
そこへいくと自分の表現能力にはがっかりする。
若い頃から磨いてきた力は一丁一石には真似が出来ない.
70歳の今からでも少し磨いてみようかな? これでも昔は文章を書いてクラスメートに回し
皆がクスクス笑っているのを見て喜んでいた時期があった。
誰かが 青春とは年齢を言うのではなく心の持ち方をいうのだ。 と云ってていたがさすがに
70歳では青春といえない。しかし 何もかも興味も関心も持てず周りの喜び悲しみにも同調
出来ないとしたらそれこそ孤独の極みである。 友人に75歳でビデオの編集やパソコンの
名人がおり毎日を生き生きと暮らしている。 尊敬すべきことであり真似をしたい事である。
前に人生は悟らないほうが良いと述べた。 悟って孤独になるよりバカになったほうが良い。
女性は悟らないと悟って女人高野を建てた弘法大師は1300年前の人。 70歳の99パーセント
が居ない時代には悟った様な顔をしても許して貰えたかもしれぬが今では通用しない。
嬉しい.楽しい.辛い.悲しい.全て経験済みで退屈かもしれないが何でもよいから味わおう。
何故なら あなた 他に何か大事なすべき事ことがありますか。
現役世代と変わりなく戦っている方には大変失礼しました。 おおいに結構な事で喜ぶべきこと
です。 但し今は現役としていても必ず降りざるを得ない時が来ると思う。 知り合いに規模は
小さいが歴史のある大学の学長を長く務めた人がいる。 その人と家族.親戚は自慢高々で
いつもその話題でもちきりであった。
ところが部下の教授や事務局は90歳を超えても.誰よりも早く出勤し誰よりも熱心に仕事をこなす
ので.大いに迷惑し辟易していた。しかもその根底にある人生感覚は明治であり大正のそれで
あった。 これでは人材が育たず組織の衰退は免れ得ない。
マッカーサー元帥の (老兵は死なず ただ消え去るのみ) この言葉は今も生きている。
老害は本人が自覚しないし. したがらないので始末にこまる。
理想は.その人の後姿を観て 誰もが ああ. いい人生を生きている人だな~と思ってもらえる
生き方を実現する事であるとの結論に達したと思ったが.これも賞賛を期待しているようでもあり
何となく物欲しそうにみえる。 しかしそのことを謙遜の美徳とばかりに押し隠そうとするタイプの
人が時々見かけられ. これも年配者のズルサがありありと表現されておりイヤラシイ。
さあイヨイヨ佳境に入ってきた. 結局何を言わんとしているのか分からなくなってきた。
安岡正篤師の (老荘のこころ) の中にこんなくだりがある。
在る県の知事が余り目立ったこともせずに素晴らしい業績をあげていた。 この事が評判と成り
その人の耳にも入るようになった. 知事は自分の業績と分かるようでは自分はまだ修養が
足りないと嘆いたと言う。 目立つ事。シャシャリ出る事。自己主張すること。宣伝する事。が
成功と金儲けに繋がる現代には懐かしい人柄である。 価値観はこれ程変わるものか?
(2013/08/25) I N 熊本